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2021.11.09

COLUMN

まちの風景が変わる時(後編)

まちの風景が変わる時(後編)

前回のおさらい!

まいど上園です。

さぁ、後編です。

 

その前に、

「前編をまだ読んでないよ」って方は、こちらをチェック!!

江戸時代、魚市場はどこにあったか?

と、いうわけで、

前回は鹿児島市魚類市場が新しくなったよ!とお伝えしました。

 

後編は、

「魚類市場と共に変わる鹿児島市のまちの風景」についてのお話です。

鹿児島の新たな魚市場 “さつま黒潮市場”

実は、この魚市場、何度か場所が変わっています。

 

最初の魚市場は、なんと江戸時代!

島津のお殿様が開いた市場が始まりなんだとか。

 

それは現在、ある通りの名前に残っています。

この通りなんですが、どこか分かりますか・・・?

君(通り)の名は・・・?

答えは、

“なや通り”

でした。

 

今では色んなお店が並ぶ商店街ですが、

その一角には乾物屋さんがあったりします。

納屋馬場の碑

“え?なや通りって海から遠いのに、魚市場?”

って思った方、スルドイですね。

 

江戸時代、なや通りのすぐ東側は海でした。

 

今の海岸線は埋め立てによってできたものです。

江戸時代の海岸線と、なや通り

この辺りが海岸だったことが分かる史跡があります。

この石灯籠です。

石灯籠

この石灯籠、江戸時代には灯台の役目を果たしていたそうな。

 

当時、錦江湾の海はいづろ電停の辺りまでありました。

沖に出た船は、この石灯籠の灯を目印にしてたんですねぇ。

 

この石灯籠が訛≪なま≫って、“いづろ”という地名になったそうですよ。

激動の昭和

現代的な市場は昭和の時代に入って開設されます。

旧中央卸売市場(昭和10年頃) [出典]:鹿児島市広報デジタルアーカイブス

その場所は住吉町でした。

この時はまだ青果市場と併設されていました。

 

ところが、昭和40年頃には鹿児島市も人口が増加し、市場の拡大が必要となります。

そこで青果市場と魚類市場を分け、現在の城南町に移転することになったのでした。

旧魚類市場(昭和42年頃) [出典]:鹿児島市広報デジタルアーカイブス

そして令和の時代になり、施設老朽化に伴い、リニューアルが図られたというわけです。

どじゃ〜ん!!何度でも載せるよ!

いかがでしょうか?

魚類市場ひとつ取り上げても、

まちの姿がガラリと変わることがイメージできましたか?

進化し続ける鹿児島市

先日、おはら祭りに出かけました。

 

こうして改めてまちを見ると、

金生町もいづろ交差点も天文館も、

それぞれ日々少しずつ姿を変えていることに気づきます。

鹿児島市のまちなみはこれからも進化することでしょう。

 

最近では、旧タカプラの再開発ビルがお目見えしましたね。

旧タカプラ跡地再開発ビル「Cen Terrace TENMONKAN)」2022年春完成予定

Li-ka1920がオープンし、交通局跡地再開発も進行中です。

サッカースタジアムや総合体育館の計画検討も進められています。

 

これからどんな建築が誕生するのか。

そしてそれらがまちの姿をどのように変えていくのか。

こんどまちを歩くときには、是非そんな視点から眺めてみて下さい。

 

ちょっと違ったまちの姿が見えてくるかもしれませんよ。


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